Pisoni Vineyards &
Winery
ピゾーニ・ヴィンヤーズ & ワイナリー 【サンタ・ルチア・ハイランズ】 画像をクリックして、ご覧下さい。
カリフォルニア産のピノ・ノワールは、かの映画「Sideways」の影響もあり、ここ数年で愛好家の数も
かなり増えてきた様子です。「まあまあ飲める」という程度だったクオリティも、適切なクローンの選択、
時間と手間をみっちりかける栽培法の実施、適切な土壌・気候の選択・・などの努力により、
ここ15年ほどの間に、カリフォルニア産という「個性」を活かした上質なものへとシフトしてきました。
上質なピノ・ノワールの産出地として有名なカーネロス、ラッシャン・リヴァー・ヴァレー、サンタ・リタ・ヒルズ
などと並んで、見逃してはならないのが、「サンタルチア・ハイランズ」Santa
Lucia Highlandsです。
サンフランシスコから車で南へ約2時間半。太平洋岸の観光&リゾート地、モントレー&カーメルから、内陸に向かって約40キロ。
太平洋側(西)を「サンタ・ルチア山脈」、内陸側(東)を「ギャバラン(Gabilan)山脈」に挟まれたサリナス・ヴァレー一帯は、
その昔から野菜・果実・花の栽培地として発展してきました。
日系移民の方、及びその後継者の方々が営んでこられている農園も多い所です。
サンタ・ルチア・ハイランズは、サンタ・ルチア山脈の北東部「Sierra
De Salinas」(サリナス山脈)の段丘に位置します。
町の名前で言えばChualarからGreenfieldにかけて、南北約30キロ弱、東西約6〜8キロの範囲です。
サンタ・ルチア・ハイランズのピノ・ノワールと言えば「ピゾーニ」、と、すぐさま名前が挙がってくるほど、今や高い知名度を誇る当ヴィン
ヤーズは、このサンタ・ルチア・ハイランズ地区の南西端にあります。
【1にパッション、2にパッション、3に情熱】
ピゾーニ一家は、1940年代からゴンザレスという町で農園を経営しており、今でもアイスバーグやロメイン
などのレタス、アーティチョーク、アスパラガスなどの栽培及び販売を行っています。
これらの農産物を扱っていくことに何ら問題はなかったのですが、転機は、1979年にやってきました。
セロリ生産でちょっと潤沢になった資金を投入して、サンタ・ルチア・ハイランズの土地280エーカーを購入、
家畜業も営むことになりました。
ところが、ところが、当時20歳代後半だったゲアリー・ピゾーニ氏は、ここをぶどう畑にしたいと、
エディ・ピゾーニ(お父様)に直訴。
「自分のことをカウボーイって言うより、グレープ・グロワーと言う方が聞こえが良いだろ?」と言う
ゲアリーさん。
まあ、これは冗談としても、とにかく、Ranchだった土地の一部、5.5エーカーを開墾。
1982年、最初に植えたのは、ピノ・ノワール、カベルネ・ソーヴィニョン、カベルネ・フラン、メルロー、
ペティ・ヴェルドー、マルベックでした。
ヨーロッパ各国、南アフリカなど世界中のワイン産地を訪れ、飲み歩き、栽培法を見て周り、
そしてあらゆる関連書物を読みあさったゲアリー氏は、「これだ!」と自分が感じた栽培法を実践していきます。
キャノピー・マネージメント、ルートストックの種類、剪定方法など、従来からのルールなど無視して
取り入れてきました。
例えば、「スプリット・キャノピーは、ピノ・ノワールには向かない」というのが、当時の「一般常識」
だったものを、「ダメと言われたら余計にやりたくなる」性格のゲアリーは、あえてピノ・ノワールの木々に
当キャノピー方を施したり、フィロキセラ予防のため、免疫性のある台木を使い、それに接木する方法が
一般的だったのに、周りにぶどう畑というものがまったく存在していなかった=フィロキセラの心配ない
という判断を下し、ルートストック(台木)なしの畑を開墾したり・・・。
当時の近隣のヴィンヤードは大量生産を主眼においたものだったのに、ゲアリーさんは1エーカーあたり
収穫量を最大3トンまでに抑えるようにしたり・・。
とにかく、周りの誰もがやっていなかったことを、次から次へと片っ端からやってのけたのです。
その執念というか情熱たるや、「思いこんだら、試練の道を〜」の世界です。星一徹です。
「実にいろいろなワインを楽しんできたけれど、結局ピノ・ノワールに戻ってきたんだ」と、
ゲアリーさんは4年前におっしゃってましたが、
その言葉とおり、当初の5.5エーカーから徐々に広がっていったヴィンヤードの大半は、ピノ・ノワールが
植えられてきました。
大好きなワインだから、大好きなピノ・ノワールだから、最高レベルのものを造りたい。
最高レベルのものにするには、どういう栽培法が良いのか、実験に実験を重ねていきたい。
情熱、情熱、情熱。
彼のヴィンヤードにかける意気込み、時間、資金は、すべて、この「情熱=パッション」によるものだと言えます。
【情熱が実となった90年代後半】
90年代後半に入って、ようやく自分が納得するクオリティのフルーツが出来上がってきた段階で、ゲアリーさんは
当時ピノ・ノワールの造り手としてベストと思われる新進ワイナリーに、自分の葡萄を売り込む手紙を出したそうです。
手紙のあて先は、Ojai, Testarossa, Peter
Michael, Siduri などでした。
これらのワイナリーに続き、Miura, Pats & Hall
などが、ピゾーニ単一畑ピノ・ノワールを出すに至り、
「ピゾーニ・ヴィンヤーズ」の名前が一躍、ワイン愛好家の間に知れ渡るようになったのです。
そして、98年ヴィンテージから、「ピゾーニ」のブランド名で、自らのエステート・ピノ・ノワールを市場に出し始めました。
2000年ヴィンテージからは、シスター・ラベルとして「Lucia」をデビューさせており、こちらはピノ・ノワールに加え、現在、
シャルドネ、シラーを出しています。
【受け継がれるもの】
ピゾーニ・ヴィンヤーズを想う時、私はいつも「ファミリーの絆」「親子の繋がり」というものについて感慨に浸ります。
約60年もの間、農園を経営してきたエディ・ピゾーニさんと、奥様のジェーンさんは、ファミリーのビッグ・パパ&
ママです。 息子のゲアリーが、何をトチ狂ったのか(失礼)、ワインのためのぶどうを造り出すことになった時は、
その成功などほとんど期待していなかったそうです。
「ヴィンヤードを開墾し始めた当初は、『充分な野菜畑があって、それで経営が成り立っていっているのに、
何故ヴィンヤードなんだ?』と、親父に聞かれたよ。ワインが好きなんだから、それを造りたいだけなんだけどね。
で、『世の中に一人250ドルもする、ブラック・タイ着用のレタス・テイスティングなんてものがあるかい?ないだろ。
ワインにはあるんだよ』って、答えちゃったんだ。がはははは。」
すごい比較です。
初めて、ピゾーニ・ヴィンヤードのフルーツがワイナリーに売れた時、ゲアリーさんはその小切手を最初にエディさんに見せました。
その時やっと、エディさんは息子がやってきたことが満更大きな間違いではなかったのだと理解されたようです。
杖をつきながらの歩行という現在のエディさんですが、視聴覚、そして会話はものすごく明晰。
奥様のジェーンさんも、実にクール&シャープで、ランチを頂きながらお話していても、まったく「飽き」が来ませんでしたし、
話題に途切れがありませんでした。
ジェーンさんはカントリー・クッキングの達人で、彼女の作るソーセージと各種フルーツ・パイは絶品です。
「あれこれ」でも書きましたヴィンヤードでのパーティーで、そのソーセージとパイを再び、思う存分食べることができて、
とても幸せでした。
【父と息子と・・・】
エディー&ジェーンをファミリー・ツリーの頂点にして、その下にゲアリー・ピゾーニ氏、そしてその下に二人の息子、
マークとジェフが繋がります。
28歳のマークは、UCデイビス校の Agricultural EconomicsdBSを取り、コーネル大学の
Farm Business ManagementでMSを取得。現在、ピゾーニ・ファミリーの農園、ヴィンヤードの両方のマネージメントをやって
おられます。
26歳のジェフは、カリフォルニア州立大フレスノ校のEnologyでBS取得。在学中から、ピーター・マイケル・ワイナリー
などで修行、02年からピゾーニ及び、ルチア・ラベルのワインメーカーとなっています。
同じくらいの年の離れ方で、同じく2人の息子をもつ我が身からすると、兄弟が大きなケンカをすることなく、ファミリー・ビジネスを
引き継いでやっている、ということ自体、「素晴らしい!」と感心してしまします。
「ティーンエイジャー前の頃は、そりゃあ、取っ組み合いのケンカをしたことだってありますよ。でも、まあ今は、普通の兄弟よりかは
仲が良い方なのかもしれないなあ。それぞれの分野で手分けしてやってるしね。」と、お兄さんのマークさん。
また、お父さんがやってこられたことを引き継いでいくにあたり、何らかの抵抗はなかったか?と
お聞きしたところ、マークさんは、こう言いました。
「大学に進学する前に、親父から『ファミリー・ビジネスを引き継いでいく気持ちがあるのなら、私のビジョンは
こうだ』と説明を受けたのです。そのプランは、現実的で、かつチャレンジングで将来性もあり、何ひとつ
反対する要素がなかった。それはおかしい、と感じるような奇妙なプランであれば反対、反発もしていただろうけど、
僕達よりも何十年も前から仕事をやってきた父の考え方は、やはり尊敬できるものであるし、フォローしていくに
値すると思いました。」
ジェフも、「物心ついた頃から、親父はブドウ栽培をしていたし、家の中はワインだらけだったし、ちびちびワインを
飲まされていたし、だから、ワインメーカーになるっていうのは、ごくごく自然の流れで、他の職業に就くってことは
考えたこともなかった。」と言っています。
ああ、世の息子どもよ。ああ、世の父親の方々よ。羨ましい親子のあり方ではありませんか。
ヴィンヤードの中を、年代モノ(?)のジープで案内してくださったゲアリーさんが、とある一角にある大きな木を指差して
言われました。「ほら、あそこのあの木。上のほうにツリー・ハウスがあるだろう?息子たちがまだ小さい時に、遊び場にと
思って、あれを作ってやったんだ。でも、『こんな寂しい所にいたくない』って一言だよ、マークからは。で、それ以来、そのまんま
なんだな、あれは。」
また、とある一角では、こうも言われました。 「この一角は向こうの丘と、こっちの丘に挟まれて、楕円形で、全体的にバスタブ
みたいだろう? だから端っこの木の下に作ったんだ、風呂場を。バスタブ IN THE バスタブ・ヴィンヤードだ。むふふ。」
ファミリー・ツリーの頂点、エディ&ジェーンがクールでしっかり者で、ゲアリーはいつまでも「子供」のような無邪気さと大胆さを武器に、
突進、そして息子のマークとジェフが、奢り高ぶることなく、冷静に地固めしていく・・・・、そういう図式というか、様子を私は感じました。
【ちょっと空回りの・・・】
ゲアリーさんの情熱は、前記のツリー・ハウスに見られるように、何かの目的に向かって全力注入されるものの、
時として彼が望んだ方向には落ち着かない、ということがあるようです。
それの典型が、去年末あたりに完成した CAVE であるように私には思えます。
このケーヴの工事が始まった時(数年前)、「これでやっと、ヴィンヤードの敷地内でワイン造りができる!」と
期待されていたのですが、できあがってからも、ワイン造りは別の場所のまま。
04ヴィンテージまでは、サンタ・ローザのCopainで造っていたのが、05年ヴィンテージからはPeayの
新ワイナリー施設でワイン造りを行っています。
「あのケーヴは使わないの?」と聞くと、「最初はその予定だったのだけど、できあがっていくにつれ、あれでは
規模が小さすぎるのが見えてきたんだ。奥行き、幅、高さ、すべて小さすぎる。」と、ジェフが言いました。
造ったはいいが、目的に合わない・・・。まるで、あのツリー・ハウスではありませんか。
そのケーヴがどうなっているかと申しますと、パーティーなどの屋内ダイニングとして使われている他、
ゲアリーさんのキャンプ場となっている様子。ケーヴの端〜〜〜っこの暗闇に、マットレスとブランケット、
マクラが確かにくしゃくしゃっと置かれていました。
この「しょうがないなあ、まったく」感が、ゲアリー・ピゾーニ氏の別の一面でもあり、見逃せない彼の魅力でもあります。
とういことで、ワインメーカーのジェフは、月に一回、ヴィンヤードまで4時間のドライブをしており、収穫時期になると、夜中の2〜3時の
収穫をするため、不眠不休の日々が続くことになります。
PEAYの新ワイナリー施設までジェフに会いに行き、アシスタント・ワインメーカーのマイケルさんと一緒に、
05年ヴィンテージのバレル・テイスティングをしました。もうすぐボトリングされる時期でもあったのですが、
試飲してすぐ、「今ここで、ボトルに詰めて持って帰らせてください」と言いそうになったくらい、
素敵に出来上がっていました。
私個人的な印象で言うと、04年ヴィンテージのものより、断然、エレガントでバランス取れていて、
抱きしめたくなるピノ・ノワールです。
今、ぶどう栽培、ワイン造り、マーケティングに関して、ゲアリーさんはほとんどタッチせず、息子二人に
全面的に任せておられます。「私は飲む方専門だよ。バチン(ウインクの音)」と言うゲアリーさんです。
現在、ピゾーニとルチア合わせて、約3500ケースほどの生産量は決して多くはありませんが、
約50エーカーほどのヴィンヤードですから、それくらいしか造ることができないのも現状。
今、敷地内の高台にある空き地10エーカーほどを開墾中、新しいヴィンヤードにするべく作業中です。
「ピゾーニ・ヴィンヤーズ」の名前は充分に有名になったけれど、ワインメーカーのジェフはまだ26歳。
これから、ますます腕を磨いていくことでしょうし、「ピゾーニ・エステート・ピノ・ノワール」も、ますます
円熟したものになっていくことと思います。
包容力たっぷりのピゾーニ・ファミリーの絆が、末永く保たれますように。
そして、末永く、ピゾーニ・エステートのワインを楽しむことができますように。
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